メンデルスゾーン/交響曲 第5番 ニ短調「宗教改革」

藤原 桃(ファゴット)

■ ユダヤ人キリスト教徒として

 フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ(1809-1847)ほど「才徳兼備」の呼称が相応しい作曲家は居ないだろう。超裕福で教育熱心な両親のもと、幼少期から凄まじい質量の英才教育を受け、多方面で才能を開花。勤勉さと行動力、人を惹きつける魅力も兼ね備えたマルチな天才で、しかも経済的に恵まれていたとあれば、人生なんの苦悩も無かったように思われる。しかしそんなメンデルスゾーンでも如何ともしがたかったのが、ユダヤ人であるという自身の出自と、それに対する世間の偏見であった1
 フェリックスの父方の祖父モーゼスはゲットーで生まれ、苦学の末哲学者として大成した人であった。メンデルスゾーンという姓は、モーゼスがそれまでの姓をドイツ風に改めたものである。その息子、フェリックスの父アブラハムも努力を重ね、ドイツ屈指の銀行の創設者として社会的地位と財力を築き上げた。日々ユダヤ人への風当たりが強くなる中、アブラハムは悩んだ末、1816年にまず4人の子供たちをプロテスタントに改宗させた(当時フェリックス7歳)。プロテスタントは言わずもがな、ルターに始まる宗教改革運動である。アブラハム自身も1822年に改宗し、この時に「バルトルディ」というドイツ系の姓を得ている。しかしフェリックスは「メンデルスゾーン」の姓を捨てず、生涯「フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ」と二重姓を名乗った。彼自身は物心ついた時からプロテスタントだったわけだが、ドイツ人になろうとするのではなく、ユダヤ人キリスト教徒としてドイツ社会との融和を目指しながら生きる覚悟の表れだったのであろう。

20歳の頃のメンデルスゾーン(J.W.チャイルド、1830)
(Wikimedia Commons)

■ 交響曲 第5番「宗教改革」

 交響曲 第5番「宗教改革」の初稿は1830年、メンデルスゾーンが21歳のときに書かれた。彼の2作目の交響曲だが、出版が遅かったので「第5番」とナンバリングされている。前年の1829年には、当時のドイツでは忘れ去られていたバッハの「マタイ受難曲」復活上演を大成功させるなど、すでに音楽家として名声を博していたメンデルスゾーン。1830年の6月に地元ベルリンで「宗教改革300年祭」という重要な式典が開催されることを知った彼は、以前にもベルリン市から行事や祝典のための音楽を依頼されていたことから、温めていたアイデアを交響曲という形で完成させる契機として、この式典を想定した曲を書くことにした。しかし、実際に式典で演奏されたのはメンデルスゾーンの作品ではなかった。式典音楽の作曲は彼の兄弟子のドイツ人に委嘱され、ユダヤ人であるメンデルスゾーンにはお声がかからなかったのである。その後、メンデルスゾーンはこの「宗教改革」交響曲の初演の機会を模索するが上手くいかず、結局初演が行われたのは1832年になってからのことであった2
 実はこの年、メンデルスゾーンはある選挙に出馬していた。彼の音楽活動の拠点であり、メンデルスゾーン家が一族で長らく関わっていた「ベルリン・ジングアカデミー」という合唱団の指揮者(メンデルスゾーンの作曲の師匠でもあるツェルター)が亡くなったので、後継選びが必要になったのである。メンデルスゾーンは家族や知人に推され(しぶしぶ)立候補することになり、宣伝活動の一環として行った演奏会の中で初めて披露されたのが「宗教改革」交響曲であった。しかし初演時の聴衆の反応はイマイチだったうえ、メンデルスゾーンは結局選挙にも敗北してしまう。教会音楽の演奏を主たる活動とするキリスト教団体の指導者に、ユダヤ人を迎えるわけにはいかないという根強い反発を覆せなかったのである。
 二度にわたる屈辱の記憶と結びついてしまったこの交響曲は、その後メンデルスゾーンの書棚に封印され、生前ほとんど演奏されることはなかった。ようやく総譜が出版されたのは彼の死後20年以上経った1868年のことである。メンデルスゾーン自身「あまりに若書きで、なんでもっとうまく書けなかったのか」「燃やしたい」「絶対出版すべきでない」などと散々な自己評価を下している本作だが、宗教改革というテーマを意識的に真っ向から具象化した力作であることは間違いない。敬虔なプロテスタントとしてのユダヤ人という存在を認めてほしい、その想いが2度も裏切られた経緯も踏まえて聴くと、彼の真面目で端正で真剣な音楽がいっそう心に刺さるのである。 

■ 楽曲解説

 4楽章形式。古典的な2管編成に、第4楽章ではコントラファゴットとセルパン3が加えられており、低音を充実させて肉厚な曲を書いてやろうという若きメンデルスゾーンの気概が伝わる。各楽章は様々な表情を持つが、全体では30分程度と比較的短く、充実した内容がコンパクトにまとまっている。

<第1楽章> Andante – Allegro con fuoco(約12分)
 アンダンテの序奏は荘厳なカノンから始まり、だんだん力強く重なってゆく。管楽器のffのファンファーレの後、突然ppで弦楽器により奏されるのが「ドレスデン・アーメン」である。

譜例1:ドレスデン・アーメンの例

この序奏部分までが、おそらく端厳とした教会あるいはそれに対峙する内省的な情景。ドレスデン・アーメンの応唱で祈りが終わると、アレグロ・コン・フォーコから、宗教改革への戦いが始まる。

<第2楽章> Allegro vivace(約6分)
 軽やかなスケルツォ。戦いの渦中にも人々の生活や遊興のときはあり、素朴な喜びが厳しい第1楽章と好対照をなしている。木管楽器の飛び跳ねるような細かい動きがいかにもメンデルスゾーン。

<第3楽章> Andante(約3分)
 ほぼ弦楽器のみで奏される非常に短い楽章(途中でほんの少しフルートとファゴットも出てくるが、この合いの手がまた泣ける)。ヴァイオリンが嘆くのは、多くの殉教者たちを想ってか。低弦の持続音が橋渡しとなり、そのまま第4楽章へアタッカで続く。

<第4楽章> Choral: Andante con moto – Allegro vivace(約9分)
 フルートがたった一人、コラール「神はわがやぐら」の旋律を決然と奏し始める。ルターが作曲したこの讃美歌は、宗教改革を象徴する存在として当時の人々にも広く知られていた。

譜例2:「神はわがやぐら」の例

このメロディがほぼそのままの形で登場し、次々と楽器が加わって大きく広がっていく作りは非常にアイコニックな引用である。この凱歌に勇気を得てアレグロ・ヴィヴァーチェ以降はさらに勢いを増し、途中にはバッハを意識してかフーガ風の主題も登場する。最後は「神はわがやぐら」の圧倒的な全奏で力強く終わる。

初演:
1832年11月15日、ベルリン・ジングアカデミーホール メンデルスゾーン指揮、プロイセン王立宮廷楽団

楽器編成:
フルート2、オーボエ2、クラリネット2、ファゴット2、コントラファゴット、ホルン2、トランペット2、トロンボーン3、セルパン(本日は使用しない)、ティンパニ、弦五部

参考文献
  • 星野宏美『メンデルスゾーンの宗教音楽-バッハ復活からオラトリオ《パウロ》と《エリヤ》へ-』、教文館、2022年
  • レミ・ジャコブ(作田清訳)『メンデルスゾーン-知られざる生涯と作品の秘密』、作品社、2014年
  • ひのまどか『音楽家の伝記 はじめに読む1冊 メンデルスゾーン』、ヤマハミュージックエンタテインメントホールディングスミュージックメディア部、2024年
  • 池辺晋一郎『メンデルスゾーンの音符たち 新装版 池辺晋一郎の「新メンデルスゾーン考」』、音楽之友社、2025年
  • 髙橋祐衣『メンデルスゾーンの「宗教改革」交響曲 -交響曲における声楽性の導入-』(博士論文)、東京藝術大学、2019年
  • 吉成順「メンデルスゾーンの信仰告白-《宗教改革》交響曲の精神的背景」、N響『フィルハーモニー』1993年3月号初出(掲載時のタイトルは「交響曲による信仰告白」)(アクセス日:2026年2月17日)
  1. メンデルスゾーンの音楽に対して、彼の人生が苦労知らずであったから底が浅い、劇的なものに欠ける、という評価が散見されるのも、ユダヤ排斥の文脈から発表されたいくつかの評論の影響を未だに引きずっている側面がある。 ↩︎
  2. この間にメンデルスゾーンは曲の改訂作業を行っており、3楽章と4楽章の間に存在していたフルートのレチタティーヴォやコラールの旋律断片などをばっさりカットしているが、近年では「初稿版」として改訂前のバージョンでの演奏や録音も増えている。 ↩︎
  3. セルパンは蛇のようなウネウネとした外見の低音楽器。木製だがマウスピースで吹く金管楽器の仲間で、18世紀半ばから19世紀半ばにかけて教会音楽や軍楽隊の中で吹かれていた。現在はほとんど使用されず、チューバで代用されることも多い。本演奏会では、指揮の中田先生からの「第4楽章での低音の増強という意味では、コントラファゴットのみで十分」(現代の楽器は性能が作曲当時に比べて向上しており、音量も出るため)というコメントに基づき、セルパンパートはカットして演奏します。 ↩︎
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